大航海時代Online【百科事典】 -
ヴェネツィア共和国
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**歴史 [#w82d23a4] ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。 古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいた。伝説では、アクイレイア、パドヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のゲルマン人のイタリア侵略からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。この時避難してきた先が現在の「トルッチェロ島」である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していた。 彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。これがヴェネツィア共和国の始まりである。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治がつづいたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。 9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。810年に東ローマ帝国‐フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。 このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。 10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。 11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。 1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノポリスを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになった。 東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。 富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治がおこなわれるようになった。13〜14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いがつづいた。1378〜81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家となった。 15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。その上、大砲の登場により干潟に住むメリットが無くなってしまった。その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。また、1497〜98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代。貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。 1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権をとりもどしたが、海洋国家としての地位は回復できなかった。 1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。ナポレオンはその領土をオーストリアに引き渡した。オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。その翌年、ヴェネツィアとロンバルディアはロンバルド=ヴェネト王国をつくった。ヴェネツィア人はイタリアの政治家マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱をおこし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。 1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。
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