イスパニア王国/スペイン †スペイン(スペイン語:España:エスパーニャ)は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、大西洋のカナリア諸島や、北アフリカのセウタとメリリャや、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。 正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、España(エスパーニャ)、やEstado Español(エスタード・エスパニョール)などが用いられている。Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ)も用いられる。 日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。これは英語のSpainに基づく。漢字で西班牙と表記し、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。 スペインは、国王を元首とする王国であるが、1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するためにとられた措置であった。しかし、慣例的に「スペイン王国」と呼称する場合も多い。 アブスブルゴ朝(スペイン・ハプスブルク朝) †フェルナンド2世とイサベル女王の王女フアナを神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世の王子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)と結婚させた結果、2人の間に王子が2人生まれた。長男のカルロスがスペイン王に即位すると同時に神聖ローマ皇帝カール5世となりスペイン・ハプスブルク朝が啓かれた。この時代は、スペインがヨーロッパで覇を唱える一方、「新大陸の発見」による植民地獲得によって、隆盛を極めることになった。 1492年 イスパニア女王イサベル1世の援助を受けたジェノヴァ人クリストバル・コロンが新大陸を「発見」した。これにより、1488年に喜望峰を探検しているポルトガルと利害が衝突する怖れがでたため、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介で1494年にスペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。インドに到達したと思ったコロンにより、アメリカ大陸の人々はインディオ(インド人)と呼ばれたため、以降彼等はインディオ、あるいはインディアンと呼ばれ、500年以上に渡る構造化された苦難の時代が始まった。またスペインは地中海へも勢力を伸ばし1503年にはナポリ王国を獲得した。 一方新大陸への征服は継続され、エンコミエンダ制のもとイスパニョーラ島などでサトウキビの生産がはじまる。また苛酷な労働と疫病で先住民が死亡したため、アフリカから黒人奴隷を新たな労働力として持ち込まれる。このような新大陸での苛酷な現状はドミニコ会司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスによって激しく非難された。ポルトガルがインド航路を発見したことに対抗して、フェルナンド・デ・マガリャーネスに新大陸周りで香料諸島への航路を探検させた。マガリャーネスはマクタン島でラプ=ラプとの戦いによって戦死したが、この大航海をきっかけに、スペインは東南アジアのフィリピンを植民地にした。 1521年にはエルナン・コルテスがアステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロはインカ文明を滅ぼし、スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。このような新大陸での探検と征服が進む一方で、スペイン人による先住民の支配は社会の荒廃と資源の収奪を極め、メキシコや中央アメリカ、アンデス地方では麻疹や天然痘、百日咳などで人口が激減し、1545年に現ボリビアのポトシ銀山で銀の採掘が開始されると、先住民は徴発され「ミタ」と呼ばれる賦役制度を課された。こうした重労働や疫病とあいまって、アンデス地域のインディオの共同体は軒並み甚大な打撃を受け、西インド諸島のようにインディオが絶滅する地域もあった。1550年にはこのような状況の是非を問う「バリャドリード論争」が、ラス・カサスとセプルベダの間で展開された。 だが、このような多大な犠牲の元スペインには大量の銀をもたらされ、スペイン黄金時代を築くことになった。一方で、南米からの銀の大量流入で、それまで銀の産地として栄えていた南ドイツ地方の銀山は衰退し、また、銀の流通量増加による価値の低下でインフレ傾向が起こるいわゆる価格革命、商業革命が起こった。さらに、人々の奴隷労働によってアメリカ大陸からスペインに流出した富のほとんどはオランダ、イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、これら西ヨーロッパ先進国の資本の本田的蓄積過程を支えた。 黄金の世紀 †16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペインが繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる。カルロス1世はフランスのフランソワ1世と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになった。しかし、その治世は多難でイタリア戦争ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することになった。さらにオスマン帝国に第一次ウィーン包囲の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦ではオスマン帝国に敗北を喫した。 次のフェリペ2世の時代には、新大陸からもたらされる富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んだ。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り先王の雪辱をはたした。1580年にはポルトガルを併合したことでその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」(スペイン帝国)となった。 最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。国内にも問題がなかったわけではない。海外からの富に頼る一方で、国内は旧態依然としたままであり、王室の国庫も決して良い状態ではなかった。前世紀のレコンキスタの精神は、ともすればムスリムの徹底した排除や進取の気風に富むプロテスタントの弾圧(異端審問参照)へと向かい、足元の産業や経済の基盤を弱めることになった。さらには、スペインの経済を支えていたユダヤ人の追放、改宗への強要など、これらはスペインの停滞・衰退へと向かう要因となった。 繁栄の終わり †1588年に アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失っていく。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。フェリペ3世のころには八十年戦争でオランダが事実上独立。スペインは貿易や産業で重要な地域となっていたオランダを失った。さらにフェリペ4世の治世の1640年にはポルトガルが独立。その後ハプスブルク家、カトリック国として30年戦争に介入するが、敗退する。1659年 フランスとピレネー条約を締結。スペインの「黄金時代」は完全に終わりを告げた 歴史 †
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