COUNTRY

スコットランド Edit

スコットランド(英語:Scotland)は北西ヨーロッパに位置するグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)の構成主体のひとつである。1707年の合同法によってグレートブリテン王国が作られるまでは独立した王国であった。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人(Scots)に由来する。スコットランド・ゲール語では「アラパ」(Alba)と呼ぶ。

スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランドと国境を接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。本島と別に790以上の島から構成される。首都のエディンバラは同国第二の都市であり、ヨーロッパ最大の金融中心のうちの一つである。最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心であり、スコットランドの人口の40%が集中する。スコットランドの沿岸部は北大西洋及び北海に接し、その海洋油田の石油埋蔵量はヨーロッパ随一となっている。

スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランドおよびウェールズならびに北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、国際私法上の1法域を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の3つの基礎であった。しかしながらスコットランドは独立国家ではなく、国際連合及び欧州連合の直接の構成国ではない。

歴史 Edit

  • 紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人が到来。その後、紀元前43年よりローマ軍の侵入に伴い、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城、アントニウスの長城及びヴィンドランダ要塞等の拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが、スコットランド全域を支配するまでには至らなかった。
  • 407年のローマ軍撤退後、ブリトン人等諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在の直接の祖先となるケルト系スコット人が到来。スコットランド北西部をスコット人、北東部をピクト人、南部をブリトン人が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。
  • 1071年、ブリテン島南部イングランドを支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランドへの侵攻を開始。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまず、長期にわたり両国間の緊張が続くこととなった。
  • 1603年、ステュアート朝のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。
  • 1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国:略称GB(又はグレートブリテン連合王国:略称UK)となる。
  • 1999年、スコットランド議会が設置された。これは、1998年の権限委譲と分権議会の設置を定めたスコットランド法によって決定されたプロセスである。

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2009-04-19 (日) 22:12:22 (5494d)